二次元文化を俯瞰し解体して再構成する文房具アート集団、そこに正当性を付与する文筆家に倫理的な非難を向けることは、自分としてはあまり興味が無い。それは正義の人たちが為せば好い。 それでもあの騒動というのは意義深かった。初めのうちは関心が薄くスルーしていたが、追えば追うほどに目を見張るような事情の滑稽さが浮かび上がってきた。それが未だに一部では尾を引いているのだから、侮れない。
現代アートは「ネット上のカオス」を選んだが、「ネット上のカオス」は現代アートを選ばなかったのだ。片思いという言葉もセンチに過ぎるほどの、喜劇的な不調和と言える。 文房具集団は、事態を即座に把握出来るほどには「カオス」に対して内在的な姿勢を持つことが出来なかった。彼らはあたかも、馴染みのない辺境から偶然持ち帰った呪具に呪われて、果ては元の持ち主たちから火矢を放たれ狼狽することしか出来ない間抜けな探検家のような、見るも無惨な姿を晒すしかなかった。 そこで自らの加害性に開き直るのが無理であるならば、何らかの軌道修正をするか、問題の作品を見限ってしまえば少しは何とかなりそうなものだが、大衆の無理解を不当であると訴え、頑なに優勢を装おうというのだから、このような泥沼の状況に至ったのも無理はない。
しかし、最も面白かったのは、騒動と化したことで、現代アートへの対抗者となった者達の「ノリ」、閉鎖的世界の中でも煙たがられるほどに密教的で、説明困難なほどに不条理な「ネタ」独自のリズム感が、予想外の場所に共鳴を及ぼしたことだった。時には、そんなものとは一生縁のないはずであった人々さえも一時的に騒動の渦中に巻き込まれ、偶然にもその不満が、彼らの無目的で自己完結的な遊びに汲み取られていったのだ。 かつて、趣味を極めて個人的な形で楽しんでいた10代の自分は、好きな漫画作品のファンアートを眺めるために個人サイトを閲覧して回ることがあった。やがて時は流れ、例の「祭り」から暫く経過した頃、その現場となったpixivにおいて、かつて自分の巡回サイトの一つを更新していた女流絵師の一人がそこに参加していた形跡を目撃し、度肝を抜かれたのであった。 別にアングラサイトで遊ぶような人でもない、ごくごく一般的な絵描きである彼女が、一見理解不能な「ネタ」に便乗して遊んでいたのを見て、何処か落ち着かない気持ちにさえなった。あのような駄コラが、面白くも、そういう人種を寄せ付けないほどには、外部とは一歩も二歩も隔たった次元にある、悪趣味の極みのような文化であることを知っていたからだ。 しかし今思えば、彼女ら「一般の絵師」から波に乗ってみたくなる物好きが出て来たという事情も、別段理解出来ない話でもないのだ。極度のナンセンスの面白味が外部に広がりを持つことも、ちょっとしたきっかけ次第では有り得るのだ。それが善き事か否かについては、自分の関心事ではない。
「冷静に考えれば訳の分からないモノ」の、本当の意味での強味を思い知らされた一件であった。その激烈さは、意図や考え深さとは無縁の偶然の中に宿るからだろう。
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