シュティルナーの、何モノにも強要されない「エゴイストとしての愛」だが、自分の行いとして実践するのは難しくない。例えば、好きな相手が美味そうに食う顔を見たいがために貯金箱の全額を使い果たした。余は満足じゃ。 自らの利害関心に則った、誠にエゴイスト的に正しい(?)行いである。自分でそう感じていれば好いのだ。
されど、「エゴイスト的に愛される」ことはどうか。「連合」の概念とも深く関わるが、これは中々難しい。相手の愛が相手のエゴイスムに適っているかなど、こちらの自己意識にとっては知る由もないからだ。表情などから窺い知れる情報はあるが、最終的に判断するのは、相手の自我以外の誰でも有り得ないのである。 表面的に貪欲な言動、例えば世に云う「ヤンデレ」風の激烈な行動は、成程一目で手前勝手な利己心に満ち満ちているのが解り、安易に「エゴイスト的」と呼べそうにも思える。しかし寧ろ相手は自らの利害関心に適うかどうかなど一々念頭に置こうとはすることの出来ない、寧ろ狂信者的な自己忘却とさえ言える典型ではないか。悲惨な末路に向かう自暴自棄な言動だったということさえ有り得る。 しかしそんなものは可能性に過ぎない。勿論それで本人が満足を得ているならそれでいい。「意識の高い」エゴイスムは或る種の冷徹さを必要とするが、そうは言うものの利益など結局結果論だ。未来が来た時に「移ろいゆく私」が今とは異なる価値判断を行うこともあるだろう。 飲んでも飲まれるなとは言うが、好きで飲まれているというならそうすれば好いと、誰かも言っていた。
しかし、どんな形であれ、誰かの利己心が「愛」を実らせたと言うなら、それはおめでたい話ではあるまいか?
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