あよあのたす

書き散らし

2018年05月の日記

“死の内面化”(或いは“二重意識の獲得”)についての利己主義の見解
岡野憲一郎氏の「死と精神分析」という文章が大変面白い。
http://kenokano.blogspot.jp/2018/04/64.html
http://kenokano.blogspot.jp/2018/04/65.html


 自分としては、この「死の内面化」や「二重意識」は非常に重要なものに思えるのだが、それを「我欲を捨て、謙虚に他人に譲る」という方向性の覚悟で達成出来るという岡野自身の見解については、果たして本当にそうであるか疑問である。


 観察する自我は、利害関心を自覚出来るエゴイストの意識によっても(否、よってこそ)強く発展可能ではないか。

 揺れ動く(つまりは欲する対象に直面するような)自我というのは、対象に目が眩んで「夢のような理想の世界へと嵌まり込み、たちまち自己を放棄してしまう」ような不安定な性質を持っている。

 もしも欲する主体が欲深くもエクスタシーの虜となり、ひと度「我」自身のことをも忘れてしまえば、忽ち喜び(快、満足、美味)を「我が喜び」として甘受する現実の力を、自己破壊に伴う一瞬の無上の快楽と引き換えに、全て喪失してしまうことだろう。

 自らを突き動かす「何か」の力に身を委ね、強い快感に夢中になるあまり、皮肉にも感覚するための血・肉・骨を拒んで、向こう見ずにも対象(を掴み取るのではなくその中に飛び込むこと)のために溺死する「我」は、フェアベアンが冷感症の婦人の夢をヒントに描いた<状況>に準えて言うならば、「リビディアルな我」と呼べるだろうが、それがもし「分裂」の結果であるなら、この突き動かされるままの「単独行動」は、正に亀裂を孕んだ構造の全体における部分的機能の暴走となる。


 我欲は、成程危険である。

 しかしそれは、死にゆく現実から逃避して生の持続に執着し過ぎているからというよりも、寧ろ例えば物質作用による疑似死のような大いなる没我の快感のように、「我」が「我」を忘れて非現実的な彼岸を夢想しては一心不乱に耽溺するほどに現実逃避的で自己忘却的であるからこそ、つまりは破滅の快感に向かうほど欲深いからこそ、危険なのではないか。

 我欲の究極は、無我欲である。

 それが近いか遠いか不明瞭なままに、死という最終到達地に歩む(或いは受動的にその瞬間を待ち構える)ことをこそ「生」と呼ぶならば、「早く死にたい」という願いは、現実の生に反することで我々を苦しめる煩悩の中の煩悩である。

 苦痛、惨劇、矛盾などに直面し、「何もかもが上手くいかない」と感じた時の自我を誘惑するのは、「この目の前の不快なる全てからの私の世界の解放」である。

 「自由」という、個々の現実状況への対抗・打破・回避という形でしか意味を成さない……それどころか、ひと度、眼前の状況を無視した絶対的で抽象的な観念として君臨すれば、我が身を取り囲む諸制約の全てに対して際限なく「逃れてしまいましょう」と誘わんばかりに、現世否定の「神」の姿へと変貌してしまう「神聖不可侵なる観念」は、我々を常に幻惑し続けている。

 有限的な生命として自己を自覚している我々は、死の宿命を意識化出来ないまま自己の生に執着してしまうために「死を内面化」出来ないだけではなく、実は無自覚的な自己否定と死への誘惑、非自己の希求によってこそ、常に呪われているのである。

 呪縛は「呪縛なき場所」という妄想の形で登場する。成程、死は直視出来ないほどに恐ろしい。一方で、死と互いに躙り寄るしか出来ぬ生が恐ろしい時には、寧ろ「死は欲される」。

 死する時の幸福感は、浮かんでは消える生の儚き楽しみよりも、確実な何かであるかのように思われてくる。その幸福「感」を前にしては、最早「感ずる」ための主体さえ既に何処にも存在していないというのに! 時間は壊れ、一瞬が永遠となって回るであろう。その天国的地平の、むせ返るような花びらの中で、果たしてお前に呼吸が出来るであろうか? 呼吸が出来ぬとしたら、その世界でお前は天国の花々を匂うことが出来るであろうか?


 しかし、いずれにせよ「我欲を捨てる」のも「無理な注文」ではないのか。それが、我-らの営みにおいてありふれた欲望であるなら尚の事そうだと言える。

 ならば、我欲(或いは「欲我」の望みか?)を検証し「取捨選択」するような視点こそが、ここで言われる「観察自我」の仕事ではないのか。それは岡野が「とらわれから逃れることはできない」と書いていることにも既に表れている。森田のように「生への欲望を抑える」のではなく、「死」を「現実の生」から切り離さないというホフマンの視座に従うのであれば、やはり我欲を断つのでは決してなく、身を滅ぼすような無鉄砲な方向に走らぬように、常に己の利害関心によって審議にかけ続けることが、二重意識なるものにおける「戦い」であり、「観察する」視点の役割ではないのか。

 とはいえ、俯瞰する視点に足を掬われ、欲する主体がマリオネットになるというのも、ひょっとすると最も身近にして最も悪質な形で享楽を妨げる、自我とその分裂が背負った「病」を悪化させる、もう一つの危険を孕んでいるに違いないのであるが。

 我-らは欲する対象に夢中とならず、さりとて「観察」に身を委ねたりもしないからこそ、「二重意識」としてのそれを維持出来るのだ。
2018年05月13日(日)   No.161 (雑記)

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2018年05月13日(日)
“死の内面化”(或いは“二重意識の獲得”)についての利己主義の見解

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