著述家・青野圭祐の昨今の不可解な対応について

2016/06/27 (2016/07/09更新)


 ネット上で「青野圭祐」とか「ath_sj3」とか名乗っている者を御存知だろうか。幾らか音楽雑誌その他にも寄稿している知る人ぞ知る著述家だ。ロック音楽愛好家なら名前ぐらいは聞いたことがあるかも知れない。WorksやSoundcloud、Bandcampの各ページで何度か名前を出している通り、一応、私的にも公的にも私の「関係者」と言える、数少ない人間の一人である。
 凡そ10年以上前からの顔見知りであるが、最近は私情により決定的に断絶しつつあると言って差し支えなく、もうこんな記事を書くのも馬鹿馬鹿しいことも否めない。が、結果的に批判的言明は避け難いものとなったため、その労力を惜しまないこととする。

 先月頃から、彼にはツイッター上で論戦に持ち込む覚悟で、批判的な「煽りツイート」の投稿を何度か試みた。しかし、どうにも「こちらの意思が読めていない」のか「あしらわれている」のか「面倒臭い」のか、内心は私には知る由もないが、一向に「返答」或いは「対処」しようという気配が見られないため、勝手ながら、この場で「問題を明文化」させていただく。


 さて、マルクスの「ヘーゲルは世界史上の大事件や大人物が二度登場すると何処かで書いていたが、以下の言葉を付け加えるのを忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として、と。」とかいう言葉は有名だが、時には歴史上の「些事」にも、等しくそのようなことがあるらしい。

 私と彼が共同的に何らかの作業に取り組んだ機会というのは、年月に比して存外少ない。せいぜい人前で数回他人の曲のコピーをしたこと、彼の作品のクレジットで私がアドバイザーとして(実質単なるスペシャルサンクスでしかないと思うが)記載されていること、私の管理する各Webページに記載の通り、彼からも私の創作上のアドバイスを受けたことがある程度であり、私的には幾度にわたる交流があったものの、何らかの相互協力的な活動を行ったことは、それほど無い。

 しかしながら、一曲だけ例外的に「共同編曲」をした楽曲があって、それが私の「アマゾネス・フリーク」という拙作である。
 過去には2013年にミニアルバム『Ludic Notion』の5トラック目にこの曲の初期ヴァージョンを収録し、2015年にも別名義の両A面で別ミックスを「アナログマスター版」という言葉を添えて収録していた。
 自分は現在、不本意にも新作にとりかかる意欲・気力を一切失っている状態である。しかし、この曲については、過去のヴァージョンに納得していなかったため、無料デジタルリマスタリングのWebサーヴィスが存在するという宣伝広告を先月見かけ、そこで何とか重い腰を上げて、別マスターを作ってみることにした。
 それが「LANDR」というサイトだったのだが、残念ながら期待したほどの成果は得られなかった。しかしながら、一応アナログマスター版に確認されたノイズなどが除去されたため、単曲で無料公開することにした。具体的にはSoundcloudと自分の個人サイトへのアップロードという形となった。

 そして、これは自分一人で手掛けた曲ではないので、参加者である青野に「新しいヴァージョンを公開しましたよ」という連絡する必要性があると考えた。前述の通り、私的にはもう関わりが皆無に等しいので、ツイッターで単純にメンション(@での通知)だけを仕掛けることにした。勿論、これを無視するも、何らかの反応をするも、それ自体は彼の勝手であった。

 どのような形でメンションを送ったかと言えば、
 @「アップロード告知のツイート」の次に、連結する形で、
 A「クレジット表記のツイート」を投稿することで、通知欄から後者が本人の目に入るようにしたのである。

※2016/07/09付記:定期的なツイート一斉削除により@は消滅。消えた本文は以下の通り。
 "前作った「アマゾネス・フリーク」って曲のマスター違いを公開しました。クソ暗いので「部屋から出たくない」とか「そろそろ現世とおさらばしたい」とか思ってる方は是非ご一聴を。[リンク]
 mp3も配布中[リンク]"

 わざわざ話し掛ける気にもなれなかったし、どうせ自分のツイートなんぞ見ていないであろうから、「今回貴方について言及してますよ。」とだけ解るように書いたわけだ。ラフな書き方もその辺りに由来する。



 それで、である。

 彼はこのメンションをスルーしなかったわけだが、ではどのように応じたかと言えば、画像の通りである。

2016年6月2日時点の青野のツイッター
▲ 2016/06/02時点の青野氏のツイッター


 つまり、Aのクレジット表記だけを、何の言葉も添えずリツイートしてそのまま放置するというものであったのだが、これは以下に詳しく述べるように、私からすれば甚だ理解し難い対応である。
 (尤も、元よりツイッターでの宣伝効果みたいなものにはハナから期待していない。実際、万単位のインプレッションに対して数回の再生数しか得られなかったという事実を公表しているバンドがいるくらいである。何の前情報もない素人創作家の宣伝目的のリンクなどスルーされるのが普通である。とは言え、誰かに聴いて欲しいと思っている以上、最低限「やることはやらねばならない」わけである。「宣伝」が目的なら、適当にツイッターにリンクを貼って放置とかではなく、何らかの工夫がなされることが望ましいのだろう。)

 さて、この「作者/演者/編者の名前が羅列されたクレジット表記」だけを文脈から切断して、脈絡不明なまま拡散することに、果たして何の意味があるだろうか。
 要するに、これを見た人の「リアクション」の問題だ。彼のフォロワー達のタイムラインにはクレジット表記「だけ」が流れ込んで来るので、それが一体何の話であるのか、誰であれ一見して理解出来るはずもない。「そんなことをしても誰にも何も伝わらない」と考える他ないのである。(クリックして辿って行くという物好きがいれば、例外的に理解し得るかも知れないが…。)
 無言でRTをするなら@とAを同時にするというのが世の常だろう。もし、AだけをRTして@をRTしないのであれば、何らかのコメントを添えないと意味不明である。
 そのコメントは決して、宣伝行為として協力的なものである必要はない。別に「新しいマスタリングが出来たようだが、何が改善されたか解らない。」でもいいし、「正直その紹介文はセンスが悪いと思うが拡散。」とか「寧ろ旧いヴァージョンの方が良いとすら思った。」とか「そんな曲もあったなあ。」とかでも構わないのである。

 何故なら「見る人間に意図が伝わる」からである。

 脈絡のない拡散をするぐらいなら、何もしない方がマシだろう。


 先にマルクスの言葉を持って来たが、それはこれが「茶番劇としての二度目」だからである。
 2013年で旧ミックスを公開した時点で、彼は自分が参加した「アマゾネス・フリーク」という楽曲について相当な手応えを感じていたらしく、ツイッター上で何かと熱心に語ることをしていた。

 例えば、

 といった具合である。

 しかし残念ながら、当時の彼の言葉には、不特定多数に向けての「告知」や「宣伝」として見れば、不充分なところが少なからずあったと思う。
 私の楽曲にリスナーがついていないことについて(ぶっちゃければせめて100人ぐらいの人間には聴いて欲しい)、彼に責任転嫁するつもりは別に無い。だがそれにしても、先に繋がるような有意義で目的合理的な対応をしてくれたようには、あまり思えなかった。

 そもそも「アマゾネス・フリーク」に限らず、それ以前の段階から、彼の「宣伝方法」の問題については度々直接批判してきたのだが、私が言語的な伝達能力を欠いている所為か、今回の件を考えても、こちらの言いたいことは少しも伝わっていないらしい。

 上記のような語りかけをしたこともあった。確かに今読むと、懸命に練った言葉にしても何が言いたいのか微妙なところがある。我ながら表現力不足であったことは認めざるを得ない。

 かねてより私が彼に伝えたかったことについて、どうやら、私よりも言語センスの良い人が代弁してくれており、反響も大きいようなので、その説得力のある言葉をお借りしたい。


 以上を踏まえ、当時の私が「批判したかったこと」を今あらためて要約すれば、青野氏の私の楽曲についての言及が、例えば「物凄い」「途轍もない」のような水準や大小、優劣の問題に終始している点。そして、何らかの感想を持つであろう人が触れる切っ掛けになるような、内容説明や素朴な形容の言葉(悲しいでも激しいでも何でも良い)を欠いている点であった。

 まあ、このエピソードは互いに力不足であったが故の失敗だったと言えるだろう。


 しかし、今回の彼のRTは茶番以外の何かで有り得るだろうか。
 告知や宣伝にすらなっていない。称賛にも批判にもなっていない。「何がしたいのか解らない」無言RTを一週間以上放置して、その後何事もなかったかのように日常の投稿をしている様子は、不可解という他ない。

 繰り返しになるが、「何もしなかった方がマシ」である。

 仮に「何も考えず遊びでやっただけ」とネタ宣言でもしてくれば、「君にしてはセンスが無いね」で済む話だ。しかし、もしも彼が本気で何か「意味のある行い」としてやったつもりであるならば、私からすれば、「宣伝文句とは如何なるものであるべきか」という、第三者を巻き込んでの論争に発展させようと考えたくなるくらいには、看過し難い惨状であった。(極端な話、彼に対して恩師である千葉雅也の援護射撃があってもいいと思っていた。)
 そして、どうにも納得がいかず、ツイッター上でそれなりに挑発的な言い回しで批判を数回けしかけたのだが、彼から私にどのようなレスポンスがあったかと言えば、SNSなどで私に突然「いいね」ボタンを押して来ただけであった。
 煽られていることにも気付かず、この件とは一切関わりなく、気紛れにボタンを押してみたのだろうか。それとも、ここには宥和政策というか、懐柔策の一環として読み取るべきメッセージが暗に込められているのだろうか。
 もし後者であるならば、そのような行いが私にとって喜ばしいものだと彼は本気で信じているのだろうか。或いは、単純に適当にあしらわれているのであろうか。
 いずれにせよ、この対応は、彼が馬鹿であるか、私が馬鹿だと思われているかのどちらかだとしか思えない。しかしどちらかと言えば後者の可能性が高いだろう。


 この辺で筆を置くことにするが、私的心理的な領域での嫌悪の念を込めた暴露話にならないように配慮したつもりだ。
 文責というものを引き受けて生計を立てている人間であるならば、私を論駁するぐらいはちゃっちゃとやってのけて欲しいものであったが、向こうからは説明も自己弁護も一切無いようなので、今回の珍事について、このように一方的に陳述させていただいた。

 諸氏には悪筆乱文をお許し頂きたい。


佐藤直哉




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