「Project-μ 全五作品 後追いプレイ記」

第一弾 『忘れな草』(2000年、第2作)

2016/09/27


※注意喚起

  本稿は、筆者個人のゲームプレイ記録であり、対象作品の内容についての深い考察を試みる論稿ではない。よって、シナリオ全体像の解説や細部の分析に踏み込むことは基本的にはせず、ネタバレには一定の配慮をしているが、幾らか製作者の意図や特定の場面について記述や引用を行い、私見や解釈を付け加える場合がある。
 執筆意図としては、作品を紹介しようという気持ちが大いにあるものの、前情報少なくプレイしたいというゲーマーの方々は、序盤だけを読んでお終いにしていただくか、ブックマークにでも追加してプレイ後に目を通されることを推奨する。

 また取り扱う対象が18禁作品であるため、本稿も18歳未満には推奨されない。



1. 出遭い

 筆者がProject-μがの開発したゲームの中で初めにプレイしたのは、全5作品のうち第2作目にあたる、『忘れな草』であった。今年の初め、「ヤフオク!」のアダルトゲームカテゴリで50円(送料別)で投げ売りされていた「ワゴン価格」の中古ゲームである。
 タイトルすら知らない作品。自分の中での前評判のようなものは一切無かった。恐らくは、MBS-TRUTHの奇作『灰被り姫の憂鬱』をはじめとする、「伝奇」「ホラー」にカテゴライズされるような現実離れした作品群への強い興味と、それらが放つ独特な雰囲気に突き動かされた、或る種の「ジャケ買い」だったのであろう。
 「このゲーム内世界には、きっと何か他にはない魅力がある」。そう期待させるパッケージ写真であった。

『忘れな草』パッケージ
▲外箱とCDケース


 ただ、Project-μというPCゲームブランド自体は「既知の存在」として見ていたと言えるだろう。第一作『北麻鞍博士の憂鬱』については発売当初のWindows専門誌(※大きな声では言えないが当時の筆者は未成年である)で読者プレゼントか何かになっていたのが記憶に残っているし、近年にも次作『彼女の願うこと。僕の思うこと。』についての古雑誌の記事を眺める機会があった。
 とは言え、ブランドについて何らかの強い先入観を抱いたりはしていなかったし(例えば、「ノヴェルシアター」という単語は今作を手にとって初めて意識することになった)、プレイ前の意識下における作品の世界像のようなものは皆無に等しかった。そういう意味では、「未知」の扉を開いたと言ってもいい。
 或る意味で、出遭いにおける筆者とProject-μとの関係性は寧ろ「無意識」の賜物と言えるかもしれない。筆者はこうして「忘れていた何か」に突き動かされることになった。

 ひとつエクスキューズを附記させていただこう。当時の筆者は困窮状態にあり、更には家族・親族に関わる根深い問題を抱えており、メンタルヘルスの状態は主観的に「限界」に近い水準にあった。面白いことに、生まれて初めて職安を利用したりしたし、主治医から精神分析的心理療法のセッションに回されたりするほどには重度の抑鬱気分に苛まれていた時期で、外に出る気もせず、最早ネットで投げ売りされているゲームばかりが「なけなしの娯楽」……そのような社会経済的・心理的状態であった。
 本文の物言いが、読者諸氏にとってやや大仰に感じられるところがもしもあるとすれば、筆者の精神状態にそういった状況的なバイアスが掛かっていたのだと、少し大目に見ていただければ幸いである。


2. プレイ環境

 さて、読書感想文であろうがゲーム感想文であろうが、「どのような形で」受容したのかは殊の外「特筆すべき事項」と言えるのではなかろうか。(色々あるが、簡単な例では、図書館の静けさの中でメモを取りながらページをめくるか、電車で音楽を聴きながらタブレット上の文字列を読み流していくか。等々。)
 まず結論から言えば、このゲームの実行ファイル(warena.exe)はWindows7やWindows10では動作しない。よって、「VirtualBox」という仮想環境上の旧OS(WindowsXP Home Edition)を使用することになった。当たり前の話だが、インストール後に正常に動作するか否かというのは、「旧OS作品」全てに常に付き纏う問題である。この話は別の機会に譲るが、書物とゲームとでは、物理的な要件が根本的に大きく異なるのだ。

warena.exe ※アイコンの顔はメインヒロインの「セナ」
 (ところで、『忘れな草』という作品名に対する、「warena.exe」というファイル名の「略称」は由来不明だが注目に値する。というのも、名称が一般名詞そのままというのは検索ワードとして相当に貧弱だからである。今作を語るにあたっては、作品名にファイル名を併記することで固有名詞としての性質が強まり、ネット検索での特定が容易になるのではないだろうか。尤も、メーカーは気紛れでこのような呼び名を附したのであろうが。閑話休題。)


3. 開幕するノヴェルシアター

 本作品を既にお持ちの方は、あらためてパッケージ裏を御覧頂きたい。注目すべきは、プロローグでもメーカーや販売元の所在地でもなく「謳い文句」の言葉である。曰く、

「脱・垂れ流しテキスト宣言!!
 小説をPC上にアップデート!
 CGのみならず、文字までもが演技する画期的演出が、幻想的な物語を盛り上げる。
 ありそうでなかった新機軸、ノヴェルシアター登場!」
 妙に挑戦的(?)で意味ありげな物言いである。少なくとも形式としての「ノヴェルシアター」が今作をして今作たらしめていると言わんばかりの意気込みが窺える。では、そのノヴェルシアターとは如何なるものであろうか?

 そもそも「ジャケ買い」で今作に辿り着いた筆者は、特にこのような「創り手の意気込み」を一切気にすることなく、興味本位で無遠慮に、『忘れな草』の世界へと土足で上がり込むことが出来た。何の偏見もなく(そのような余裕もなく)、甘美な不思議世界への淡い期待だけを胸に抱いていたのである。
 更にハッキリ言ってしまえば、「50円で買った昔のパソコンゲーム」であったから、此方としては期待半分ながらも、「クソゲー上等」といったところであった。

 しかし、「ノヴェルシアターであること」は予想外に、今作と「普通のAVG」との差異を露わにする重要要素であった。次のキャプチャー画像を御覧いただこう。

画面いっぱいに踊る文字  ゆらゆら揺れる文字 ▲「ノヴェルシアターの文字演出」 © Project-μ ※他への転載を禁ず。

 ディスプレイ上で重なり、うねり、暴れる文字表現が伝わるだろうか。所謂「サウンドノヴェル」その他の言葉とのニュアンスの違いが垣間見えるであろうと思う。
 この演出法が、プレイヤーの「心理」に大きな打撃を与えてくるのである。


4. 「あてられる」“髑髏文体”と難易度

 いきなり人を遠ざけるような否定的な言葉遣いを持ってきたが、今作にはこれぐらいが丁度好いのではないかと思う。というのも、それくらいの精神的負担を、プレイヤーに強いてくるからである。(蓋し、この点は創り手も自覚しているところであろう。)
 だが、この言い方は必ずしも、プレイ中に「無為な感じ」、或いは「退屈」が伴うことを意味していない。寧ろ反対に、否が応にも作品への「熱意」や「拒絶感」を持たされることになる。最も俗な言い方をすれば、「好き嫌いが分かれる」のが『忘れな草』の魅力だと断言してしまおう。

 「髑髏文体」という言葉は、何処にも浸透していない筆者の造語である。今作のシナリオライター、即ち脚本の書き手は当時「砂斗あきら」を自称していたが、彼の名義は一貫しておらず、インターネット上においては「髑髏伯爵」を名乗っている場合が多いようである。よって、「髑髏伯爵」特有の「クセ」を強調して、Project-μの全五作品に一貫した「テキストの独特な体裁」を、「髑髏文体」と呼ぶことにする。
 この呼び方には、それが「人を選ぶ」異質な文体であって、正に死神的なおどろおどろしさの意味で「髑髏」と冠する他ないという凶悪的ニュアンスと、一方で、プレイヤーを虜にして止まぬ作家の独自性を保証するような礼賛的ニュアンスとが同時的に備わっているのだということを、予めお断りしておきたい。尤も、書き手が何処まで意図してこのような書き方をしていたのかは定かではないが。

 難易度であるが、筆者は発売当時のProject-μの熱狂的ファンサイト『Project-μ応援所』(※閉鎖済)のウェブアーカイブを参照してプレイしたのだが、結論から言えば、元よりそうする以外に無い難しさであった。参照した理由としては前述の通り、今作が「ハズレクジ」であることを覚悟の上で、ちゃっちゃと終わらせてしまおうという魂胆からであった。しかし、結果として、有志による攻略情報無くしては、完全攻略までに数ヶ月単位の時間を要したことは疑いない。いや、それどころか自分の能力だけでは全シナリオを制覇してイヴェントCGをコンプリートすることは不可能に違いなかったこと、即ち「投げた」可能性が容易に想像される。
 かつて今作は特価版の通販(送料込2000円!)だけでは飽き足らず、難易度を下げたヴァージョンを発売する計画すら練られていたとの噂さえある。結局そのような計画は現実化しないまま、2004年にブランドは解散に至ったのであるが。
 兎にも角にも、このゲームは難しい。何がどう話の「分かれ目」となったのか、物語全体の構造・因果関係が一体どうなっているのか、そして我々に何を見せ、伝えようとしているのかさえも、理解することが簡単とは言い難い。
 それは後述するように「意図せざるマイナス要素」ではないし、よく言えば、暇を見つけて徹底的にやり込むには持って来いのゲームであるとも言える。もしも諸氏の中に意欲的な誰かがいるならば、ひたすら作品世界に熱中して暫く抜け出せなくなる程の「連日プレイ」に、是非ともトライしていただきたいものである。

 「髑髏文体」の方に話を戻そう。
 「ノヴェルシアター」方式で展開される『忘れな草』のテキストは強烈である。その殆んどは、主人公「ソラ」のモノローグが占めており、単純に言うなら「独白的な文章」であるが、今作は独白の垂れ流し以上の苛烈さを備えている。
 一言で言えば、極度に「自省的」で「自意識過剰」なテキストである。文章で何度も繰り返される「罪悪感」という言葉がそれを象徴しており、主人公のソラ――彼は同窓会の手紙を受け取って村に里帰りした25歳(今作の主要人物は全員が20代半ばである)のフリーターの男なのであるが、作中には彼の自己批判的なモノローグの嵐が渦を巻いている。
 例えば、作中に登場する印象的な言葉をそのまま引用するならば、
「打算」 「後ろめたい」 「負い目」 「自己嫌悪」 「つまらない下心」 「決まりの悪い思い」
「冷笑に口元を歪めていた」 「どうしようもなく情けない気持ち」 「大人気無い自己顕示欲」
 ……云々かんぬん。加えて、ヒロインに接する自分を自嘲的に「犬」と形容する卑屈な自己意識の表れなどが際立つ。
 こういった情け容赦のない内省地獄は、実はコンセプトからすれば必然とも言えるのであるが、回りくどい言い回しが目立ち、文体が強迫的に過ぎるほどレトリカルであることは既に多くの人に指摘されている通りである。(例:@AB
 しかし、例Bのレヴュアーの指摘する、「読んでいる側もあてられてしまう」、つまり心理的ダメージの大きいプレイ感は、実は創り手の意図が成功している証左ではないだろうか。そのように考えるのは後述するように決して間違いとは言えない。だがそれでも、渦巻く「ソラの自己嫌悪」に加えて、文体そのもののしつこさや過剰演出、一癖あるキャラクター・デザインといった諸々の要素が、プレイヤーからすれば苦痛増大の要因となることを否定するのは難しいだろう。言わせてもらえば、巷で安易に形容される「鬱ゲー」とは本来このようなゲームを指すのではないかというほど、『忘れな草』は、内面を絶望的なほど暗澹とした気分に染め上げるダーク・ファンタジーとしての暗い影を隠し持っているのである。
 18禁であるかを問わず、「美少女ゲーム」と言えば何であれ、先ず第一にヒロインとの「対話」を享受するものと考えるのが世の常かも知れないが、その肝心のプレイヤーの話し相手たちが、「愛想笑いと謝り癖の持ち主」(セナ)であったり、「説教魔人」(カエデ)であったり、挙句は「登場するや否や怒りのままに主人公をいきなり殴打する小娘」(ナズナ)であったりと、異様にストレスフルな手土産を我々にプレゼントしてくれる変わり種ばかりであることに筆者は戸惑いを隠せなかった。(男のキャラクターも強烈なモノを持っているので、是非その点もお楽しみいただきたい。)
 そして、上述の「ノヴェルシアター」なる文字演出は、発売16年を経た現在となっては、慣れないうちは「ゴシック体の悪趣味なパワーポイント」のように目に五月蠅く、内面のモヤモヤを掻き乱すことを益々助けてくれるのである。

 恐らく、こういった「プレイヤーを追い詰める薄暗さ」が、作品に対する最大の好悪の分岐点であると思われる。何故「薄暗さ」なのか。サタニズム的で露悪的に人々を魅了するシアトリカルな暗さではなく、ジトジトとしつこく肌に張り付いてくる今作の闇の性質は、飽くまで「薄暗い」としか形容し得ないのである。
 しかし、繰り返しになるが、この、懺悔を反復させられ続けるような苦痛は、我々が創り手の意図に嵌っている結果でもある。難易度の問題を脇に置けば、「動画音声なしの文字主体」で「人間の暗部に触れる」(後述)には、髑髏文体やノヴェルシアターの過剰演出は格好の武器になっていると言ってもいいだろう。
 さて、炸裂するネガティヴィティから薄暗い主題の世界に踏み込む前に、少し「視聴覚的な演出」の美的な側面にも触れておこう。


5. 美的表現について

 原画家のひねもすのたり(現・ZAK)氏は、前作『北麻鞍博士の憂鬱』では「終日のたり」名義でCGの塗りを担当していたのであるが、原画においては今作が「デビュー作」ということになる。(※混同されることがあるようだが、かのエロ漫画家・「ひねもすのたり」氏とは別人である。)
 それゆえか、後の他作品に比べれば、テキスト演出に負けず劣らず、人物の立ち絵的などについてもやや「クセが強い」ところがあることは否めない。
 だが、総じて見れば、視覚表現は全体的に作風にはよく合っているように感ぜられる。バス停、薄暗い森、木造一軒家の内装、蝉の死骸、鳥居といった田舎の風景描写は、プレイヤーを舞台に引き込むのに充分である。これは、原画と塗りを担当したひねもすのたりのみならず、背景グラフィッカーの凡々氏の手腕に依るところが大きいのだろう。
 知られている通り、「ソラが人の目を見て話せない」ということを表現するために、キャラクターの立ち絵を鼻から下だけ画面に出すなどの表現も、適切であり、ゲーム世界の「薄暗さ」に一役買っていると言える。

ソラの逃避的な性格と正視恐怖的な内心が伝わって来る
▲「視線を逸らす主人公」 © Project-μ ※他への転載を禁ず。

 さて、今作で何よりも優れていると言えるのは、実は「サウンド」面である。これはProject-μお抱えの作曲家・有阪千尋が担当しており、BGMなどは、このゲームを構成する諸要素の中でも群を抜いてクオリティが高い。そもそもProject-μというブランドの作品レヴェルを一定以上に底上げしていたのは、彼女の紡ぎ出す「音」だったと言っても過言ではないだろう。
 よく指摘されるように、『忘れな草』が誇る「音」というのは、BGMに限ったものではない。真夏の過疎村を感じさせる効果音演出をベースに、然るべきタイミングで見事な背景音楽が奏でられる。そのような音響監督としての仕事である。
 テーマソングと言っていい“花摘みの歌”こと「咆哮する森」や、「木漏れ日に踊る君」、「しあわせのあわ」などの美しい調べは、プレイ後に何度も再生して作中世界を思い返してしまうノスタルジックな性質を備えている。このノスタルジア、プレイ中は様々な混沌と謎に困惑させられながらも、プレイ後に何度も思い返してどんどん惹き込まれてしまうという今作特有の手触りには、「音」の演出が相当に大きく貢献しているのではないかと思わされるところがある。

 視聴覚演出について触れたので、テキストとそれとの絡み、即ち文字演出についてもフォローを入れておく。『応援所』のアーカイヴにおいては、「ノヴェルシアター」のコンセプトは「真に"小説"というものをPC上にアップデートし、"読ませる"ための"演出"を!」というものであり、そのセールスポイントは「画面表示要素に一切の脇役がない!」であったと公言されている。
 そして、「"会話の間"であるだとか、"思考と台詞の時間関係"など、小説でも表現しきれない部分を、安易に音声や動画に頼ることなく、あくまで文字主体で表現」しようという試みでもあった。計算通りに縦横無尽に踊り回る文字のテンポに合わせて効果音やBGMが挟み込まれる「音」の立振舞も、この辺りに由来するのであろう。


6. 描かれる「原風景」/描かれない「背景」

 さて、ここからは細部の考察に踏み込むことはないにせよ、少し話の内容に触れ、また、そこに対する私見を付け加えていくことになる。大きなネタバレは避けるつもりであるが、これから偏見なくプレイしたいという人はここいらで引き返していただく方が無難であろう。

 『忘れな草』は、髑髏伯爵氏の語るところによれば、「前回の北麻鞍は老荘思想とユングだったので、今回はフロイトで行こう」としたものらしい。先に「創り手の意図」と繰り返したのは、主にはそのあたりの「意図」のことである。
 だが御安心いただきたい。ここでは別に「元ネタ」としての哲学思想・心理学の是非や、シナリオがその理論に沿った内容であるか云々についての講釈を垂れるつもりはない。筆者は『忘れな草』の脚本家の言葉から、「今作が如何なる標的を目掛けて射出された砲丸なのか」について、プレイ当時よりもクリアーに見つめ直そうと試みているだけである。

世界の真実を垣間見せる薄暗い小屋の中
に、僕は一瞬、何か得体の知れない深い
闇を見たような気がしたが、見ないふり
をして、すぐに心の奥底に重い蓋を閉じ
込んだ。
 これは主人公・ソラが幼少期にメインヒロインのセナと過ごした時間を回想した時の一節である。このゲームの主題は、意識の奥に沈めた過去への囚われ、心のしこり、蟠りといったものではないだろうか。
 『応援所』の資料によれば、企画の段階で、コンセプトはかなり明確な形で打ち出されていたようである。曰く、メインテーマは「心と記憶、ひとをかたちつくるもの」であり、「人間の暗部に目を向けることで、そこから逆説的に"心"というもののすばらしさ、ひいては人間というものの価値、世界というものの真実を求めること」が今作の狙いであると明かされている。前述した自意識過剰なテキストや回りくどい文体なども、そういった意図を踏まえて好意的に見れば、作風の「薄暗さ」に対して非常に効果的であり、狙い通りの印象を与えることに成功していると言える。
 (それが快いことであるかは別問題であるが、書き手に言わせれば、今作には榎本ナリコの漫画『センチメントの季節』のような「苦味」を取り込もうとしたとのことであるから、単純な「快」で完結してくれないことは、やはり今作においては寧ろ必然の感覚だと言えるだろう。)
 「心の奥底」の「重い蓋」を初めとする、暗い「記憶」に関わるフレーズは作中に多出する。
「原風景のようなものを思い出した気持ち」 「あの日の情景」

「赤い轍」 「記憶の底からにじみ出てきた、闇のようなもの」

「得体の知れない深い闇」 「僕の中にある深い影のようなもの」

「追憶」 「幼少のころ、僕が垣間見てしまったもの」
 …等々。
 BGM「遠き水底より」の題名にある「水底」という言葉も、舞台として登場する天通鏡(あまつみ)の池だけでなく、「心の奥底」をも連想させるというのは筆者の深読みだろうか。いずれにせよ、ソラの「里帰り」とは、「幼少期の体験」への痛みを伴う対峙のようなものではないかと思う。
 過去に囚われているのはソラだけではない。例えば、「カズキの事件」について、その「影」に怯えて錯乱するナズナなども典型的だ。「僕たちの罪」「僕たちが背負ってしまった罪」「見殺しは同罪」「罰」、精神遅滞の下級生「カズキ」を巡る彼らの過去の行いについて、ソラのモノローグや「白い帽子」男の台詞が、「罪」「罰」といった自責的な言葉で以って説明を加える。まさにソラの連呼する「罪悪感」が作品全体を覆っており、「過去に対する後ろ暗い感情」がこの作品に通底するものの全てだと言っても過言ではない。

 ところで、『忘れな草』は全シナリオについて一貫した説明をつけるための考察は、様々な理由から、難しいのではないか。
 その理由の1つが、「手紙の主」を初めとする作中の「謎」に対し、その「真相」にあたる「客観的事実」が、個別ルート、或いは個々の「問題」によって全く異なっており、辻褄合わせをする気配さえ見えないことである。共通の背景設定の下で限られた舞台装置と役者を使いつつも、全く別個の筋道を複数組み立てることで、主題に沿った様々な「実験」としてのシナリオを描いた結果がこれなのではないか。それぞれのルートは、別々の真相と意味を持った別々の夢として体験されるのである。
 だからこそ、ソラ(たち)の頭に付き纏う「罪悪感」や「恐怖心」の原因も、どの「しおり」を選ぶかによって変わってくるのである。

シナリオ選択のしおり
▲「シナリオ選択のしおり」 © Project-μ ※他への転載を禁ず。

 脚本家は、今作が18禁商品であることに対して或る種の拘りを持っていたようである。よって、罪の意識を苛むのは「殺し」のように単純で典型的な史実に留まらない。性に関わる幼児期の数々の「行い」も、ここには大きく絡んでくるのである。
 それは作中では然程具体的には表現されず(「幼児の性描写」が規制されているからだろう)、「幼少期における性体験とその目撃」や「性的なものを大いに含んだ虐めへの加担」について、それとなく匂わし仄めかすだけの場面が多い。しかしながら、『応援所』などでは性体験に関わる「真相」が裏話としてハッキリ語られており、そういった作品外資料を通じて更に具体的な情報を深く知ることが出来てしまった。
 一方で勿論、肉体的に成長した主人公たちの性交渉の場面はありありと描写される。ただし、これが「性的にそそる」ものであるかと言えば極めて微妙である。何せ、主人公もしくはヒロインが狂乱状態・忘我状態に陥って性的行為に及ぶ場面や、半狂乱の人物が起こす暴行未遂のようなシーンが目立つからである。第4作『ほとせなる呪 ちとせなる詛、』においても似たような感想を持ったが、愛が成就する感動的ハイライトとしての濡れ場シーンではない、露骨で歪みの大きい性交シーンをこれだけ数多く挟んでおきながら、最もエロティシズムを感じられたのが、躓いて転んだセナの下着が見える一枚絵であったという筆者の感覚からも、今作には享楽的な「エロ」が欠如していると言わざるを得ないところがある。(しかし、果たして何処までが筆者の性嗜好によるもので、何処までがこの作品特有の「クセ」に起因するのだろうか。)

 さて、このように、記憶の奥底の「暗部」との対峙を主題とした『忘れな草』は、内面描写に重点が置かれているのであるが、一方で今作は村の伝承や神話が絡んだ壮大でファンタジックな伝奇物語でもある。
 このあたりはかなり背景設定がよく練られており、掘り下げていくと面白い。日本神話的要素とホラー描写がセットになっているという点では、同ブランドながら作風を異にする『呪詛、』とも共通している。
 だが、背景設定に関して言えば、幼児の秘儀的な性描写以上に、作品内だけの説明で「腑に落ちる」ことは難しい。考察が困難な理由はここにもある。ここで、「創り手の意図」を引き出してみると、曰く、

「何もモニタの中でゲームの全てが完結する必要はない」

「書くにあたってその答えを持ってはいるが、説明が不要だと思う部分はあえて描かずに隠したままにしてある」

「作品は読まれることで受け取り手の中で(例え途中で読むのを止めてしまおうと)完結するもので、それぞれが答えを導き出すための材料さえあればいい」




 とのことである。

 一般論としては尤もであるが、この作品に関してそれがプラスの要素になっているかはかなり怪しい。ファンサイトなどの作品外で、作りこまれたSF的裏設定その他が公開されることで、「成程それは面白い」と感じられるにも関わらず、作品内をどんどん掘り下げていくだけでは合点が行かず、幾分か「よく解らなかった」という感じを残して終わるのであるから、そもそも作品内に答えを全部書いて「謎が解けた」方が満足感が強いに違いないからである。
 ましてや、このあまりにお喋り好きなテキストにあっては、語れることは全て潔く語ってしまった方が好いだろう。このようなスタンスは、『灰被り姫の憂鬱』(MBS-TRUTH)のような、言葉少なで、無際限の「言外」を読み手の想像力に委ねてしまう、物静かな耽美的作品にこそ相応しい。

 とは言え、作品が完結した後で作品外の説明に触れ、ノスタルジックにBGMを聴き返しては、自分の中で作品世界を懐かしむことは出来た。そのような楽しみ方を通じて、人間の「心」に向き合うという「狙い」の部分は各人の内的世界で、一応は果たされ得るのではないだろうか。筆者は心理学に明るい者ではないが、S.Freud的世界だと言われれば何となくそんな気もしてくるものだ。
 しかし、それだけの懐かしみ的な行いをさせてまで主題を伝えてくれる「力」があるかについては、やはり余りにも「好みが分かれて」しまう「クセの強いやり口」であり、そこが大きな壁になるであろうことは否定し難い。それでも当時からカルト的に支持者を集めていたことからも、潜在する「マニアックな需要」に繋がる魅力がふんだんに詰まっているのは間違いないだろう。この論題については、全5作を総括する際に語るのが好ましいと思われる。


7. プレイ後の享楽、カエデさん雑考

 プレイ中はついていくのがやっとという思いが否めなかった『忘れな草』。「真セナルート」や「忘れなQ」まで全てコンプリートして、「プレイ後のお楽しみ」までめげずに歩き続けたプレイヤーはどれだけいるだろうか。
 既に書いている通り、筆者は同ブランドのファンサイトやレヴューページを参照しながら、今作の主題や謎について、より深く掘り下げて知ることになり、何度も作中世界を郷愁的な気持ちで思い返すことを繰り返した。そして、そうすることで、作品に対する思い入れというものが段々大きくなっていったように思われる。
 遠足は「家に帰るまで」で終わってしまうが、ゲームというものは「プレイ後から」想像の世界を膨らませていってナンボなのである。

 さて、最後に余談を許していただこう。
 多くの人が「真セナルート」が全てで、その感動のために個別ルートという長い道程あるかの如く語っているように思えるが、筆者は寧ろ、プレイ後に何度も作品世界に舞い戻ることで、「カエデルート」の面白味を思い知ることとなった。よって、本節では「カエデ」に関連する情報を多く記載するので、未プレイの読者にはご注意願いたい。

 カエデというヒロインはどのような人物か。前述した通りの「説教魔人」である。父による、舞台となる上鷺村の再開発事業の「罪滅ぼし」として「星祭」を行おうとし、自己意志の弱い一つ下の主人公を振り回す26歳の美女である。
 夏らしい、やや露出度の高い衣服を纏っており、説明書のキャラクター紹介文曰く、「大地主の娘にして、才色兼備の分校のマドンナ的存在。おっとりしていて、なんとなくぼんやりとした印象を人に与えるが、結構するどく人を観察しているタイプ。特別自意識が強い訳ではないが、基本的に人に関して無関心であり、時折心ない発言を平気で言い放ったりするところがある。人と話す際、相手の顔をうれしそうにジロジロと見ながら話す癖があり、男性諸氏にとってはまったく罪作りである・・・」とのこと。

 このヒロインであるが、ハッキリ言えば、プレイの最中は作品の不快要素の代表と呼べる程には強い心理的ダメージを与えてくれる碌でもない存在であった。一言で言えば、うっとおしいのである。ソラに対しては自分が年上という意識から、口を開けば「挨拶」、「マナー」、「礼儀」などという良識の物差しでお説教を食らわせながら、時折ひとり頷きながら訳のわからないことを宣い、ソラを自分のペースでブンブン振り回してしまうおかしな女である。
 そもそもソラが彼女に好意を持つということが全く理解できなかった。意識の奥底に沈んだ暗闇や蟠りが今作のテーマだとは書いたが、カエデの関わる話は(スズネと同様に)「幼少期の罪」を中心問題に置かない、純粋な伝奇ストーリーと言える。しかし、性愛と自意識の問題に関して言えば、一番気持ちの悪い形でこじれているのがカエデ編である。
 ソラは時に自分の姿が犬のようだと語るが、カエデシナリオにおいて、「犬意識」は特に顕著なものとなっている。
 相手の顔を見て話さないソラは、そういった日常的な振る舞いを細々とお説教されてしまうのであるが、ソラのカエデに対する「視線」は、明らかに、白いタンクトップが夏の日差しに汗ばんだ、彼女の胸元の辺りに集中している。即ち、下心が剥き出しになっているのだ。そして、カエデの鋭い人間観察によってその好意が見抜かれ、「見て見ぬフリは相手のためにならない」「報われない努力は辛い」などとやんわりと拒絶される。そんなカエデに対するソラのモノローグと来たら、
とにかく僕は、カエデさんに微笑みかけ
てもらいたくて、ただそれだけで必死だ
った。


あたかも気持ちを見透かされたかのよう
にたしなめられ、急き立てる気持ちにお
預けを食らったこの時の僕は、まるっき
り主人の顔色をうかがう飼犬のようだっ
た。
 などと言ってしまう始末である。重症である。
 ソラは、或る別のシナリオで、気を失って寝込んでいる無抵抗状態のカエデに対して、唇の中に指を挿入し、胸元を弄り、果ては彼女の寝顔に自分の男根を擦り付けて亢奮するのだが、何故そういう心境に至るのかが不思議であった。これほど嫌な女を相手に、そのような行為に及びたくなるほど彼がお熱になってしまった理由が最後まで解らなかった。

 が、プレイ後の今に至っては、『忘れな草』に思いを馳せる度に、どうしたわけか評価は逆転し、心境はソラのそれそのものとなり、リアルタイムでは一切感じなかった、カエデ特有の色気を懐かしむ気持ちばかりが募るのであった。
 ソラの内面と外面を鋭く観察して口に出し、ベラベラと話を強引に押し進めて振り回すのに、手を出すことを許す隙だけは見せない一方で、突如間の抜けたような言動を見せ、自分が率先した同窓会も星祭も上手く行かないと珍しく落ち込んだりする。その姿が、時に妙に魅力的に思えるのである。これではFreudというよりはFairbairnの世界である。

 ※「『刺激的対象』は、『満足を与えてくれない』という意味で『悪い』対象として説明されてもいる」
 「『刺激的対象』と言うときには、自我はその対象の魅力にじらされ翻弄されるという意味あいが込められている」(『人格の精神分析学』P.252)云々。


 そういうわけで、『忘れな草』で一番「刺激的」なヒロインは「翻弄者」であるカエデであり、実は心理的に根深いものがあるのもカエデルートだと言ってしまいたい。勿論、村の開発や伝承についての紐解きもカエデとともに星祭の儀を進めていなければ、見えて来ないはずである。


 さて、予定よりも長文になってしまったが、次回のプレイ記は呪いのチェーンメールを題材にしたProject-μの第4作『ほとせなる呪 ちとせなる詛、』を扱う。その主題歌を歌うシンガーの名義が「カエデさん」なのであるが、深い意味でもあるのだろうか。多分無い。



文責:あよのた






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