「Project-μ 全五作品 後追いプレイ記」

第二弾 『ほとせなる呪 ちとせなる詛、』(2002年、第4作)

2016/10/08


※注意喚起

  本稿は、筆者個人のゲームプレイ記録であり、対象作品の内容についての深い考察を試みる論稿ではない。よって、シナリオ全体像の解説や細部の分析に踏み込むことは基本的にはせず、ネタバレには一定の配慮をしているが、幾らか製作者の意図や特定の場面について記述や引用を行い、私見や解釈を付け加える場合がある。
 執筆意図としては、作品を紹介しようという気持ちが大いにあるものの、前情報少なくプレイしたいというゲーマーの方々は、序盤だけを読んでお終いにしていただくか、ブックマークにでも追加してプレイ後に目を通されることを推奨する。

 また取り扱う対象が18禁作品であるため、本稿も18歳未満には推奨されない。



1. 出遭い

 2016年3月上旬、通販ショップ駿河屋にて購入。凡そ1200円。妥当な価格だと思う。実はこの時期に筆者の生活状況が改善されたのだが、心をメランコリーに染め上げてくれた『忘れな草』に続いて今作に手を出した当時の自分が何を考えていたのかは定かではない。しかし、この時点で「Project-μ作品を全作やってみたい」と感じていた自分がいたことは確かである。

 パッケージは小さく、箱入りのDVDケースだ(中身はCD-ROMだが)。専門店では探しにくいが、正直なところPCゲーム特有の「デカイ箱」は邪魔という他なく、このコンパクトさは有難い。また、このメーカーは第一作目を除いて、歌詞カードのようにマニュアルをCDケースに入れるのが通例であるため、DVDケースになったことで逆に取説は大きくなった。ひねもすのたり氏によるラクガキが添えられていて可愛らしい。
 今作では原画が凡々、背景グラフィックがひねもすのたりと役割が逆転している。何らかの戦略だと思うが、それはそれとして凡々氏によるパッケージイラストは美麗という他ない。

『呪詛、』パッケージ
▲パッケージとCD-ROM。盤面のデザインも可愛らしい。



2. プレイ環境

 嬉しいことにWindows10にて正常動作。しかしウィンドウが小さかったので拡大表示してプレイ。ただし、今作の醍醐味である「メール送信システム」というのは、試してみたが設定しても上手くいかなかった。チェーンメールを題材とした作品だけに、非常に残念である。(尤も、大きく宣伝されている割には「期待ハズレ」の機能だったようだが。)
 ところでタイトル画面のBGMだが、どうして『忘れな草』の「遠き水底より」が使い回されているのだろうか。


3. 作品名の表記揺れ

今作では登場人物の顔ではなく今で言うフィーチャーフォンをアイコンにしている
 さて、今作の正式タイトルなのだが、これがよく解らない。「ほとせなるうた ちとせなるしるし」と読むことは間違いないのだが、各所で表記揺れが起きている。
 Amazonや駿河屋では『ほとせなる呪 ちとせなる詛』と句読点ナシで記載されている。しかし、パッケージやポスターを見ると『ほとせなる呪 ちとせなる詛、』と最後に読点が打ってある(外箱の頭の部分には『呪詛(じゅそ)』と略称も添えられている)。一方でインストールした実行ファイルへのショートカットでは「ほとせなる呪、ちとせなる詛.exe」と、読点の位置が変わっている。更にGetchu.comを見ると、『ほとせなるうた ちとせなるしるし〜呪詛』と書かれている一方、イメージイラストにはやはり『ほとせなる呪 ちとせなる詛、』とあり、もう何が何だか解らない。
 発売までの間に変更があったのだろうか。発売後の『BugBug 2002年11月号』の表紙と攻略ページでは『ほとせなる呪ちとせなる詛』と読点どころかスペース無しである。今現在筆者の手元にこれ以外の無いので、取り敢えずパッケージにある『ほとせなる呪 ちとせなる詛、』が正しく、略称は『呪詛』(或いは『呪詛、』?)が相応しいと推定しておく。


4. 声の演出 〜「無作法の芸」試論〜

 さて、第4作目となる今作では、なんとキャラクターのセリフに音声が付け加えられている。今作は「ノヴェルシアターPLUS」と表記されており、ウリである「ノヴェルシアター」の基本はそのまま、その演出を強化していこうという意気込みが窺える。だがその一方、『忘れな草』のコンセプトで「安易に音声や動画に頼ることなく、あくまで文字主体で表現」とまで言い切ったのは何だったのかという感じも否めない。推測だが、ブランドの持ち味を維持したまま何とかキャッチーさを出そうという試みの一環だったのではないだろうか。
 そしてその問題の「音声」だが、ハッキリ言って全体的に「ヘタ」である。恐らく、その多くが格安のギャラで雇われた専門学校生か何か、一部は演技指導などを受けたことがない「素人」ではないかとさえ思われる。導入部分のみに登場する脇役の時点でクオリティが見えてしまうのは致命的だ(体験版をプレイした人間がそこで投げてしまう)。

 しかし、これも次第に然程気にならなくなってくる。慣れ、の一言で済ませてもいいだろうが、「三文役者」なりに真面目に芸に取り組んでいる結果だと思う。
 持論だが、「無作法の芸」というのも捨てたものではない。限られた予算や技量で何かを作るしかないというのはよくあることで、そのような妥協点の存在はもうしょうがない。だが、制約の中で出せるだけの力を振り絞ったものというのは、素人臭さが拭えないとしても、存外悪いものではなかったりする。手先でやれないからこそ、気合でカヴァーしているのだ。いや、そうするしかないのだ。作法を知らぬ者が何かを表現するとすれば、当然、人一倍力を入れてやるしかない。無作法の者がやる芸事に、「照れ」や「遠慮」があるなどというのは問題外だ。それは演技や歌唱において顕著であると思うし、そういうものを痛いほど見てきた。「無作法」の者が本来的に「作法」の者に並べないというのは大前提だ。それでも手を抜いていない感じが伝わりさえすれば、不自然で嘘臭く、気持ちの籠もっていない表現から受ける「素人特有のむず痒さ」も、多少なりとも相殺されるものである。


5. 攻めの恐怖演出と低難易度――苦肉の「売れ線狙い」か

 今作はホラーゲームである。それもかなり真っ当な、「怖がらせること」に主眼を置いた恐怖作品である。娯楽性が重視され、作り手のメッセージのようなものは「前景には」出ていない。
 物語は、「呪いのチェーンメール」を巡り、主人公の鈴木隼人とヒロインの大橋真澄が怪奇事件に巻き込まれてそれに応戦するという、至ってシンプルな構造だ。暗い画面に映し出される正体不明の人影、目、口、手などといったホラーCGは、ありきたりと言えばありきたりで、作為が透けて見えるくらいだ。しかしながら、呪いの着信メロディに合わせて恐怖シーンが来るという作中のパターンには次第に反射的に身構えてしまうようになるし、物語が進むに連れて徐々にその追い詰め方にも力が入って来るので、真夜中にやればしっかり恐ろしい気持ちにさせられる。
 また、今作のシステム「ノヴェルシアターPLUS」では、視覚演出だけでなく「3Dサウンドシステム」が採用されている。ヘッドフォンでプレイした感じからして、これはオートパンのようなエフェクトを指しているのであろうと思う。確かにスピーカーでやるよりも臨場感はある。

 ところで、散々指摘されているように、今作の「呪い」には元ネタとなった事件がある。それについて知りたくないという方はここで読むのをやめて欲しい。


 そう、所謂「コンクリ事件」である。
 今作プレイ時にあらためてWikipediaなどで事の顛末を確認したが、本当にクリソツという他なく、元ネタにしているのが明らかである。実際の事件から着想を得るというのはありがちな話だが、ここまで露骨なのも珍しいのではないか。アイディアとしてよりにもよってこれを引っ張り出してくるというのは、見る人が見れば相当に不謹慎であろうし、「禁じ手を使った」と言っても過言ではない。
 それから、『忘れな草』と比較すれば、明らかに難易度が低い。今回もファンサイトの攻略ページを見ることになったが、分岐は至ってシンプルなものである。ノーヒントでクリアー出来る作品だったかも知れない。
 原画家の交代、プレイヤーを攻め立てるような恐怖演出、反則技的な元ネタ、低難易度……『忘れな草』が過剰に私小説的ならば、こちらは映画・ドラマ的なやり口と言っていい。本来ノヴェルシアターにあるまじきものであった「音声導入」といい、個性派をウリとしている(?)Project-μが、どうしてここに来て或る種の「単純明快さ」に走ったのか。
 推測するに、これがチームなりの苦肉の「売れ線狙い」だったのではないだろうか。ブランド解散時にPINKちゃんねるのスレッドで、「流通・販社方面」を中心に言うことを聞かないブランドとして風当たりが強かったと告白されているProject-μが、熾烈な市場競争の中で強い立ち位置にあったとは考え難い。勿論、一方では「カルト的」な支えがあったからこそファンとの交流も深く、解散までに5つもの作品をリリースすることに成功していたのだろうけれども、実際問題としてチームを維持することが難しかったのだろう。我が道を往く、「独特」な作風の持ち主が生き残ることの困難さを痛感させられる。

 とは言え、単純明快になったことが作品をつまらなくしたかと言えば決してそうではない。一度身に染みた個性というやつは、どう拭っても拭い切れないからだ。方針を少し売れ線に変えたところで「ぷろみゅー特有のクセ」が消え去ることはない。寧ろバランスが取れているぐらいだ。
 “鬱”地獄に特化し、付いて行くのがやっとであった『忘れな草』に見た、「苦痛」(こそがあの作品のアイデンティティなのだが…)に繋がる諸要素は今作では程良く削ぎ落とされている。ストレートにスリリングで、初心者にも攻略しやすく、結末も決して難解なものではない。今作は単純に「面白かった」という安直な言葉とともに、スッキリとした気持ちでプレイを終えることが出来る爽快な「イージネス」を備えており、それが武器であるとも言えるだろう。
 元長柾木がアダルトゲームを小説に落としこむと「ケータイ小説」になると言っていた(※)が、今作は題材と合わせて二重の意味で「ケータイ小説」的なのかも知れない。(※『最終批評神話』所収「法・倫理・社会を超えて」53頁)

 しかしまあ、繰り返しになるが、今作が例え本当に「売れ線」に路線変更していたとしても、それがそのまま思惑通り実現していたわけではない。知る限りこの作品が「売れた」という話は聞かない。寧ろ5作の中ではマイナーな方である。そして、シナリオの書き手は「砂斗あきら」こと、我らが髑髏伯爵先生である。今作においても、髑髏伯爵の作家性と知恵が存分に生かされている。次は作中の「語り」の側面ついて少し触れることにする。


6. 都市伝説と神話伝承

 今作においては、数々の都市伝説についての薀蓄が、主にヒロインの一人である高田翔子の台詞を通して語られる。多分、これが髑髏伯爵の「持ちネタ」なのだと思う。こういう例は別段珍しいものではない。
 例えば、『Elysion』の藤木隻などが好例だが、「オタク的」に多分野の専門知識を有する博学な書き手が、シナリオ内で薀蓄、雑学、学問を一種のネタとして扱ったり、時には思想、価値観として披露するというのは、少なくとも当時においてはよくある「芸」だったのではないかと思う。
 今作ではムック本でネタにされそうな数々の都市伝説の他に、民間伝承や日本神話などについても多くが言及されている。恐らくは、詳しい人からすればどれもこれも初歩的な、定番中の定番ばかりであろうし、そういう意味でも今作が比較的キャッチーな路線であることをあらためて確認出来るポイントでもあるのだが、自分はそのテの話に明るい者ではないし、例えば記紀などについては全くの無知蒙昧なので感心するばかりであった。

 このような薀蓄は、作中では、小出しにされるのではなく、まるで1つの「コーナー」に入ったかのように連続してベラベラと語られる。しかしながら、その「コーナー」も、本題から脱線した無関係な小話をひたすら羅列して終わりというわけではない。
 知恵者であるだけでなく、或る意味で物語上、助言者の役回りでもある翔子は、主役の隼人と真澄を相手に、「白いセダン」や「道祖神」などといった前近代から現代に至るまでの「伝承」「伝説」について、「枚挙に暇がない」と言わんばかりに、次々と説明を重ねていく。彼女が社会学や文化人類学の専門であるという設定が既に物語っている通り、それらは時代を越えた人間的行動として、(何やら「示唆的な問いかけ」を添えて)提出されている。ならば、彼女を通した「説明」は話の脱線どころか、今作における作者の思索の根幹を成す必然の具体例であると言えるのではないだろうか。
 また何より、主人公たちを翻弄する「呪い」の解決方法への手掛かりとして、寧ろ基本的にはその為に、それらの薀蓄話は扱われており、このこともプレイ後の爽快感に一役買っていることは疑い得ない。


7. 凡々CGの性的魅力や如何に

 さて、今度は視覚描写の話である。既に述べたように、今作は他で「グラフィッカー」であった凡々が唯一「原画家」として起用されており、恐らくはこれも一種の戦略たったのだと思われる。
 パッケージを見ての通り、凡々のイラストというは、端的に言えば整っていて綺麗である。多分一枚絵を手掛ければ、しっかりと美麗な作品を仕上げて来る職人なのであろうと想像される。OHPのアーカイヴにおいても、(サムネイルしか残っていないが、)『忘れな草』の登場人物をやや写実的でスタイリッシュなタッチで描いて公開したりしていたようで、どちらかと言えばポップな絵柄で可愛らしさが前面に出るひねもすのたりとは別種のセンスの持ち主であったことが窺い知れる。

 とはいえ、その才覚がゲーム内の原画仕事においてまで上手く発揮されていたかと言えば微妙である。塗りの問題などもあるだろうが、例えば脇役の立ち絵などは、このブランドが避けて通れない言葉である「アクの強さ」が際立つものとなっている。
 肝心の「エロシーン」はどうかと言えば、微妙なものが多い。シチュエーション自体の異様さも手伝って、過激シーンではあっても、そこに性的な快楽性はあまり感じられなかった。性器や精液の描かれ方なども独特で、明るくコミカルな日常カットの方が魅力的に思える。
 『忘れな草』については「セナの下着の絵の方がそそる」と書いたが、今作も真澄の「シャワーシーン」の方がエロティックに感じられた。もしもこういった感想が普遍的なものであるなら、やはり向き不向きというのがあったのだろう、担当を入れ替えた企画者の意図は失敗だったと言える。
 ところで、一応はド真ん中直球の「ホラーゲーム」として設計されたであろう今作は、漫才じみたコメディシーンをところどころに挟みつつ、激しい演出の恐怖シーンに頻繁に突入するのだが、それらにおける視覚描写は「写真の加工」も含め、かなり力が入っている。「背景塗り」に回されたというひねもすのたりが何処から何処までを担当したのかは定かではないが、立ち絵などの人物画以外の恐怖演出で何らかの大きな仕事をしているとすれば、この作品の「絵」の仕上がりを影で支えていたのは実はひねもすの方だったと考えることも出来る。

力の入った「無数の手」のCG
▲「視覚的な恐怖演出」 © Project-μ ※他への転載を禁ず。

 ともあれ、こういったCG面の特徴からも、Project-μの「18禁」への拘りが、性的刺激以外の部分に向けられがちで、それが一部作品に限った話ではないらしいことが少しずつ見えて来た。18禁シーンの性的魅力が薄いとして、その点を看過してよいか否かはかなり微妙なところであるし、創り手からすれば不本意であろうが、そうなってもおかしくない方針と作風のブランドであったことは確かである。絵については、「アダルト指定のホラー作」として見れば、充分上出来である。

8. 『忘れな草』との共通項や差異

 『忘れな草』とは対極にある点ばかり強調して来たが、一方で「出自」が同じであることを物語る要素も数多くある。既プレイ者はあらためて比べていただきたい。今作と『忘れな草』との間に見出だせる共通項は、何も「下着」や「シャワーシーン」(というか“尻”)のようなサーヴィス・カットが「異様な性交渉」よりも性的に感じられたことだけではない。
 既に指摘されているように、『忘れな草』と『呪詛、』は田舎/都会という真逆の舞台にありながらいずれも「ホラー系」の作品である。それもただジャンルが同じだけではなく、現代を舞台とするフィクションの中に、「古き伝承」という、似たような着眼点を盛り込んでいるという意味で地続きである。
 『忘れな草』では、再開発を前にした過疎地域を舞台に、古より根付いた神話的な「怪奇」が主人公たちを翻弄する。一方、『呪詛、』においては(過去分詞的に言えば)既に開発された地域を舞台に、“都市”伝説という「怪奇」が容赦なく襲い来る。しかし今作は、例えば「ケータイ」の「チェーンメール」という新しいツールを大きく掲げるなど、より「現代」的な姿形をしてはいても、その現象の根源が決して現代人特有の何かにあると見做さない。寧ろ神話とアニミズムの時代を生きた「過去」の人々の行いとも通ずる、「ヒトの世」において時間的・空間的に不変・普遍の現象としての意味を積極的に読み取ろうとする。あらすじには既にこのようなことが書かれている。
“都会の闇の中に蠢く、神世の時代より息づく「呪詛」とは…?”
 そのような「怪奇の遍在性」が、対照的な作風である両作を、まるで反対色の衣装(≒意匠)を纏った双子の兄弟のように見せるのである。

舞台となる街の風景
▲「都会的な背景画」 © Project-μ ※他への転載を禁ず。

 ジトジトとした、重苦しいメランコリーを従えてやってくる『忘れな草』の世界は当然ダークなものである。一方、リズミカルに、脅しかけるような迫力で以て我々の心を震撼させようとする『呪詛、』の世界もまた、異なる意味でダークであると言えよう。
 前者は「伝奇」と表現される古風な不気味さであり、後者は巷の「ホラー映画」風の慄きである。道を違えた「双子」の片割れが舞台を闇一色に染めるのにはそれだけの理由がある。その理由、言い換えれば、今作が我々の内界でさりげなくイメージの更新を試みている対象は、一言で言えば、「死生観」だろう。


9. 「死生観」

非売品。ヤフオクで入手。
▲『ほとせなる呪 ちとせなる詛、』 B2ポスター


「 汝 、 死 を 忘 る る な か れ 。 」

 最近入手した今作のポスターにはこのような煽り文が書かれている。

 ErogameScapeの“POV”に「死生観」というものがあり、リンク先の短い説明書きには見事に「メメント・モリ」というキャッチフレーズまで添えられているが、今作の核は正にこの「死生観」を措いて他にないということに誰もが気付くであろう。これは当該サイトでPOVを沢山つけている筆者からすれば最も重要なポイントとなるものであり、一番のお気に入りPOVでもある。
 しかし、今作の語り口は意味深で思わせ振りである。繰り返しになるが、今作のウリは筋書きその他の「単純明快さ」にあるはずだ。けれども、ひとたびその後方に目を向ければ、物語上の大きなテーマについて、虚を突くようなやり方で、プレイヤーの意識がそちらへ向くように繰り返し語り続けているのがよくよく解る。
 まさにそれが、「汝、死を忘るるなかれ。」と言わんばかりのものなのであるが、なにぶんテーマだの思想だのはイージネスを前に背景化されており、仄めかすような「示唆的な問いかけ」、或いは、直感的な気付きを与えるに留めるような語りかけばかりで、筆者もこれらについて説明的でいられるほどにはよく吟味出来てはいない。伝えようという気持ちこそ強く感じるのだが、言葉にし難い難題を何気なく口ずさんでは、語り部が真横をすり抜けて逃げ去るようでもあり、「考えさせられる」という陳腐な感想はこういう場面で出て来るのかも知れない、という気分にさえなる。

 だが折角なので、作中の面白い言葉を少し引用してみよう。しかし、物語の終盤部分に触れてしまうので、不要な前情報を避けたい未プレイ者は目に入れないことを推奨する。


「もしかすると、カッパなんかより、
 根源的なもの
を、私たちは見ている
 のかもしれません。」(翔子)

「ですから・・・
 ある日、とんでもない”厄”が、
 その”道”を通ってやって来ても、

 止める術はありません・・・」(翔子)


しかし、突きつけられた”死”・・・
それは今でもきっと身近にあり続けて
いる。

命の続く限り、それは常に背中に忍び
寄る機会を狙っている
のだ。


すべての当たり前の中にも、等しく
”闇”は存在している。

そしてそれは、ほんの些細なきっかけ
で、私たちに語りかけてくる
のだ。


 面白いのはこんなところだろう。作中では「当たり前」という言葉は、生と死が隣り合わせであり、各人で遠いか近いかの差がある程度に過ぎないということを語る際に使われていた。
 「道」、或いは「死」や「闇」というキーワードが示すのは何か。それは日頃視界には入らないが、常に背後から押し寄せてくる禍々しいグロテスクな力であり、そこらじゅうに影を潜めている妖怪のように謎めいた、オカルティックで不可思議な「気配」である。正にホラー作品の主題という感じがする。
 『忘れな草』の中々腑に落ちない感じと比べれば、やはり難易度の低さというのが手伝って、「作者のメッセージ」感がダイレクトに感じられる。しかし、この主題そのものは、『忘れな草』以上に抽象的で、掴み難く、直感に訴えるようなものであると思う。
 死生観について、直感に訴えるだけでなく踏み込んで「論じていく」ような作品などは別に求めていない。だが感じたのは、やはりこの作品も、もう少し裏話を見せて欲しいという物足りなさであった。脇道に逸れれば話がこじれるであろうから、未回収の伏線のようなものがあるのは仕方がない。しかし例えば、作中で語られた「女の勘」などは、一体それが何なのか、もう少し突き詰めて欲しかったところである。


10. 実験作としての『ほとせなる呪 ちとせなる詛、』 その娯楽性

 本稿では『ほとせなる呪 ちとせなる詛、』を通じた発見について述べながら、幾らか「推論」のようなものを行った。今作は、独特ではあったが勝者ではなかったProject-μが、逆境を乗り越えるべく作り上げた実験作ではないかと思う。

 引っかかる点は多い。やはり、「問題の焦点」以外の部分を気にし始めると、消化不良であることは否定出来ない。それから、Eメールの普及年というものを考えると、作品内の「事件」と作品の発売年の時間的距離などは非現実的である。そして、その「事件」のモデルというのは「実験作」として勝負に出たとしても、かなり反則技に近いのではないかという印象が残る。
 だが、そうして得られたゲームとしての娯楽性重視の方針というのは高く評価したい。別に文学作品気取りのゲームを作り続けても自由だが、スッキリとした構成、平易なゲームデザイン、自体の解決方法やアイディアの飲み込みやすさは好感が持てる。今作は、『忘れな草』のように頭を抱えてやり込むのではなく、トントンと、一気にスリリングに体感していくものだと思う。その点と主題との兼ね合いは「上手く行っている」と筆者は見ている。

 さて、次回は所謂「バカゲー」として注目に値する、ブランドの享楽的な処女作『北麻鞍博士の憂鬱』を扱う。唯一「ノヴェルシアター」に非ざるこの作品は、結果的に全五作の中では異彩を放っているかも知れないが、Project-μの原点であり、追究にあたって絶対に無視出来ない存在である。



文責:あよのた






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