事あるごとに「正当性」を振りかざす立場から、日常的に生理的嫌悪感に基づいた集団的な罵倒を繰り返されるのを見ると危機感を覚える。いずれ「不快な人間」はそれだけで悪人となりそうだ。 一方で、ハラスメントなんか各人の心理的事情に基いて好きに認定すれば良いだろうと考えている自分がいる。 しかし、正義を存在の根拠とする市民権という創造物はそう簡単に開き直ってはくれない。 例えば、無意味で不自然で邪魔な行動にしか思えない私的ジンクスを侮辱・妨害したり、引きこもる人間に「関われ」だの「打ち明けろ」だのと干渉するのは当人には多大なストレスである。そういった当たり前と見なされないことへの攻撃を当人が強く問題視することは、俺は一向に構わないと思う。しかし「社会」にとっては、あらゆる主張に政治的正当性を付与するわけにもいかず、寧ろ有害なるものとそうでないものとの「分別」が彼の責務とならざるを得ない。
私的な事柄には踏み込ませない。不快な侵犯は拒絶できる。自由人の権利。 ドアに引っ掛ける「Don't Disturb」の札はますます便利なものになるが、使用条件が厳しい。人が心の安全を求めているのは同じであるはずなのに。 産業や社会通念が求めていないような得体の知れない言動については、とりあえず不審とか異常と呼ぶしかない。 表向きは、同時に「差別」が発生しないように何らかの工夫もされるのだろう。 けれども例えばDSMの枠が際限なく広がっていったとして、それが充分な受け皿となるのかはよくわからない。結局メンタルヘルスの問題については公の場では沈黙する方が安全そうに見える。
良識の想像力から外れたものは皆妖怪だ。厳密には誰もが、誰かにとっての妖怪にならずに生きていけないとしても、規範の重圧の下に晒されることは避け難い。 どれだけ時代の要請で「私的であること」が重視されたとしても、断固として社会を主語としない利己的態度は忌避される運命なのかもしれない。それでも最終的に固持すべきは後者であるように思う。
リリースされなかった歌からだが、syrup16gの「関わりたくはないがそうもいかない」は中々の名句であると思う。
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